今や日本中でもお馴染みのお祭り!
岸和田だんじり祭り!!!
今年は9月18日と19日に開催です!
自分の大親友のこの兄貴にだんじりの説明をして頂きました!!!
写真は何故か...爽やかです!
岸和田でSHANKARA SUPER 7というお店の名物店長です!
お名前は...茂ちゃんです!!!
今回は茂ちゃんの地元『 筋海町 』の地車をご紹介致します!
彫り物の解説は...勿論!茂ちゃんです!
太閤記 : 開 生眠作 前田犬千代
犬千代はこの戦いで初陣を許され、初手柄を立てる。
そして、信長より『 初陣というに肝に毛が生えし奴よ 』と称えられ、後に加賀金沢百万石の大大名となる。
太閤記 :野村 正作 新納武蔵守
秀吉が九州を責めた時の島津の武将、新納武蔵守と加藤清正の一騎打ち!
長いサシの戦いとなり1時間近くなったとき、武蔵守は誤って手に持った鉄棒で自分の乗ってた
馬のの足を打ってしまい、驚いた馬は倒れて武蔵守はは落馬してしまった...。
清正は槍を突こうとしたが、かかる智勇の将を討ちとるのは惜しい思い槍を収めて...
『今度馬を換えて再度戦いを致そう』と言って引き返したと言う武士魂の良い話です。
よってこの彫り物の銘には...
『 九州川内河、新納武蔵守.加藤清正ト戦ヒテ破レタルモ引分ケトナル 』と書かれています。
太閤記 : 野村 正作 加藤清正
上と同じ。
源平盛衰記 : 開 生眠作 梶原景季
源平合戦で源氏軍は二軍に分かれて福原(神戸)を責めた。東の生田攻めを源範頼 / 西の一の谷を義経。
その時の東の生田の森で梶原景時親子が突撃したが、あまりの犠牲の多さに一旦引き揚げるが、息子景季のいないのに気付き再度引き返す。
景季は敵中に深く入りすぎて苦戦をしていた。
しかしその中でも景季は美しく咲き誇った梅の一枝を矢を入れるえびらに挿して奮迅し
『吹く風を何いとひけむ梅の花、散り来る時ぞ香りはまさりける』と読んで、荒々しき坂東武者にもゆかしき武者がおったのかと、平家軍も心打たれ風流武士の異名を取った話。
大坂夏の陣 :西本 五葉作 左/真田幸村 右/真田大助
豊臣と家康との大坂方の天王寺口での最期の決戦。
今までの幸村の策謀も外れ、仕掛けた地雷も雨で鎮火された。
幸村は...
我れ十三歳より天文に心を尽くし、今日まで一度として当たらぬ事はなかりしに今日この雨は降るのは解らなかった。
誠に残念な事である。
と采配を投げ捨て、槍へと持ちかえ家康の首を狙いに行った。
このシーン(見送り)の天井には星宿が掘られてて、北斗の先は幸村の進む方向を指してて、
この剣星は破軍星と呼ばれ指す方向は万事不吉なりとされた。
大坂方の敗北を意味して掘られたのではないか?とされてます。
大坂夏の陣 : 西本 五葉作 国松背負う後藤又兵衛
我が町 筋海の自慢の作品です。
半田寺山にて棺桶に隠れる家康に槍突き入れる国松背負う後藤又兵衛-
幸村の銅連火の策に東軍は敗走、疲れ果てた家康は棺桶に隠れ休んでいると、槍を突いてくる武者(後藤又兵衛)が一人、慌てた側近大久保彦左衛門は太刀を抜き槍を半分に切った。
よって家康はかすり傷で助かった。その時、切り折られた槍先を見れば、名槍日本号であり、
家康は『 後藤又兵衛は生きておったか 』と呟いたと言う。
又兵衛は三田沖之助と名を変え幸村の命を受け熊野は新宮左馬之介に預けられし秀頼の子、国松を引き取りに行き、大坂へ向かった話。
ここからは余談です!
筋海町は明治22年4/1沼野村となり
明治45年4/1岸和田町大字(おおあざ)沼字筋違町、字餌差町、字瓦屋町となる。
大正2年1/1三字を併せて大字筋海町となり、大正11年11/1岸和田市筋海町になって現在に至る。
我が町はダンジリに対する見識が高い人多数いたと言われている。
先先々代ダンジリは明治13年に新調され去年まで熊取の小垣内で曳行されていました。
先々代ダンジリは大正10年に新調しましたが、一度も曳行せずに熊取の五門に売却したダンジリです。
当時を知る古老は『今年も曳かれへんけど辛抱してや今度ええのん作るから』と言われたと話し、
その言葉通り大正11年8月連続新調したのが名地車と言われる現、熊取町の七山の地車です。
しかし数年後この地車で怪我人を出す惨事を起こし、泣く泣く手放した。
そして数年後の昭和8年9月、若い衆の懇願もあって新調したのが現在の地車です。
大工 九吾
棟梁 久納 久吉
脇棟梁 久納 幸三郎
彫刻師 責任者 西本 五葉
一元 正
開 生眠
玉井 行陽
今回はえらく真面目な感じになりましたが...
明日も引き続き!
茂ちゃんが登場致します!!!
あと今年の団長の墨田君に団扇とタオル頂きました!
有り難う!隅田君!祭り!頑張って!!!
地車の事故ばかり集めたDVDもあるみたいです!